山陰旅行(2019年8月19日撮影)その16:隠岐の島旅行 その8 [山陰旅行]
隠岐の島旅行2日目の続きです。
玉若酢命神社の続きです。
ネット情報を記載します。
玉若酢命を主祭神とし、大己貴命・須佐之男命・稲田姫命・事代主命・須世理姫命を配祀する。
社伝によると、景行天皇が皇子を各国に分置し、隠岐国に遣わされた大酢別命の御子が玉若酢命であると伝えられている。玉若酢命は、この島の開拓にかかわる神と考えられ、当社の宮司を代々勤める神主家の億岐家が古代の国造を称し、玉若酢命の末裔とされる。
創建は、1667年とされています。
(1) 神社の拝殿です。しめ縄が大きいですね。
(2)
(3)
(4)本殿です。
(5)
(6)
(7)八百杉
次は、隠岐国分寺です。
隠岐国分寺について、ネットからの情報を、記載しておきます。
創建は不詳。天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃に創建されたと見られる。
鎌倉時代末頃には、元弘2年/正慶元年(1332年)の元弘の変に敗れた後醍醐天皇が、隠岐国分寺を行在所としたといわれる。『増鏡』では天皇が隠岐島に流された時のこととして「海づらよりは少し入りたる国分寺といふ寺を、よろしくさまにとりしひておはしまさむ所にさたむ」と見えるほか、古文書では元弘2年8月19日に出雲の鰐淵寺の僧頼源が隠岐国分寺で天皇から綸旨を授かったとも見え、天皇の行在所説はこれらに基づく。
一方、天皇の行在所説としては島前の西ノ島町の黒木御所も知られることから、実際の行在所の所在は判然としない。
場所は、ここです。
(8)
(9)ここにも、水木しげるの彫像と粗面岩が展示されていました。
水木しげるさんは、隠岐を旅行して、隠岐は、水木しげるさんのルーツだと感じて、彫像を置くことを了承したようです。
(9l)
(9X)
(10)粗面岩です。説明は、↑
(11)
(12)
(13)
国分寺は、明治2年(1869年)に本堂・三重塔が消失した後。明治3年(1870年)に廃寺となり、南東にあった真言宗の尼寺も明治5年(1872年)に廃寺となった。その後の経緯は、次の通り。
僧寺
1879年(明治12年)、寺の再興。
1934年(昭和9年)3月13日、境内が国の史跡に指定。
1950年(昭和25年)、本堂再建。
2007年(平成19年)2月25日、本堂焼失。
2009年度(平成21年度)、発掘調査開始。
2014年(平成26年)9月、本堂再建。
2018年(平成30年)10月15日、史跡範囲の追加指定。
尼寺
1969-1970年度(昭和44-45年度)、発掘調査。
1972年(昭和47年)3月31日、寺跡域が島根県指定史跡に指定。
(14)
(15)
(16)山門
(17)
(18)山門
(19)
(20)
(21)
(22)本堂
(23)手水舎
(24)
(25)本堂
使用カメラは、D500+Nikkor 18-200F3.5-5.6 VR
宇多田ヒカル - SAKURAドロップス •2015/02/05
昨日の東京の新型肺炎の感染者は、224人で、CPR検査数が、3400と増えているのが、その大きな理由です。CPR 検査数が増えれば、陽性者数が増えますので、そのために、病床数増やしています。CPR検査態勢は、一日に1万件出来るように、するそうです。
病床数を確保して、リスクの高いところを、ピンポイントで、PCR 検査をして、感染者を隔離してゆくのは、間違いではないでしょう。
将棋の棋聖戦の第3局が行われました。途中まで、互角の戦いで、途中から、少しづつ、渡辺棋聖が、リードを拡げ、間違えずに勝ちきったという感じでした。
さすが、今の将棋界で、最強の棋士と言われるだけあって、強さが光りました。
次は、どういう展開になるか楽しみですね。
テリーの部屋 Part 1 はこちらです。https://terry658.blog.ss-blog.jp/
玉若酢命神社の続きです。
ネット情報を記載します。
玉若酢命を主祭神とし、大己貴命・須佐之男命・稲田姫命・事代主命・須世理姫命を配祀する。
社伝によると、景行天皇が皇子を各国に分置し、隠岐国に遣わされた大酢別命の御子が玉若酢命であると伝えられている。玉若酢命は、この島の開拓にかかわる神と考えられ、当社の宮司を代々勤める神主家の億岐家が古代の国造を称し、玉若酢命の末裔とされる。
創建は、1667年とされています。
(1) 神社の拝殿です。しめ縄が大きいですね。
(2)
(3)
(4)本殿です。
(5)
(6)
(7)八百杉
次は、隠岐国分寺です。
隠岐国分寺について、ネットからの情報を、記載しておきます。
創建は不詳。天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃に創建されたと見られる。
鎌倉時代末頃には、元弘2年/正慶元年(1332年)の元弘の変に敗れた後醍醐天皇が、隠岐国分寺を行在所としたといわれる。『増鏡』では天皇が隠岐島に流された時のこととして「海づらよりは少し入りたる国分寺といふ寺を、よろしくさまにとりしひておはしまさむ所にさたむ」と見えるほか、古文書では元弘2年8月19日に出雲の鰐淵寺の僧頼源が隠岐国分寺で天皇から綸旨を授かったとも見え、天皇の行在所説はこれらに基づく。
一方、天皇の行在所説としては島前の西ノ島町の黒木御所も知られることから、実際の行在所の所在は判然としない。
場所は、ここです。
(8)
(9)ここにも、水木しげるの彫像と粗面岩が展示されていました。
水木しげるさんは、隠岐を旅行して、隠岐は、水木しげるさんのルーツだと感じて、彫像を置くことを了承したようです。
(9l)
(9X)
(10)粗面岩です。説明は、↑
(11)
(12)
(13)
国分寺は、明治2年(1869年)に本堂・三重塔が消失した後。明治3年(1870年)に廃寺となり、南東にあった真言宗の尼寺も明治5年(1872年)に廃寺となった。その後の経緯は、次の通り。
僧寺
1879年(明治12年)、寺の再興。
1934年(昭和9年)3月13日、境内が国の史跡に指定。
1950年(昭和25年)、本堂再建。
2007年(平成19年)2月25日、本堂焼失。
2009年度(平成21年度)、発掘調査開始。
2014年(平成26年)9月、本堂再建。
2018年(平成30年)10月15日、史跡範囲の追加指定。
尼寺
1969-1970年度(昭和44-45年度)、発掘調査。
1972年(昭和47年)3月31日、寺跡域が島根県指定史跡に指定。
(14)
(15)
(16)山門
(17)
(18)山門
(19)
(20)
(21)
(22)本堂
(23)手水舎
(24)
(25)本堂
使用カメラは、D500+Nikkor 18-200F3.5-5.6 VR
宇多田ヒカル - SAKURAドロップス •2015/02/05
昨日の東京の新型肺炎の感染者は、224人で、CPR検査数が、3400と増えているのが、その大きな理由です。CPR 検査数が増えれば、陽性者数が増えますので、そのために、病床数増やしています。CPR検査態勢は、一日に1万件出来るように、するそうです。
病床数を確保して、リスクの高いところを、ピンポイントで、PCR 検査をして、感染者を隔離してゆくのは、間違いではないでしょう。
将棋の棋聖戦の第3局が行われました。途中まで、互角の戦いで、途中から、少しづつ、渡辺棋聖が、リードを拡げ、間違えずに勝ちきったという感じでした。
さすが、今の将棋界で、最強の棋士と言われるだけあって、強さが光りました。
次は、どういう展開になるか楽しみですね。
テリーの部屋 Part 1 はこちらです。https://terry658.blog.ss-blog.jp/
こんにちは。
確かに、しめ縄が短く太いですね(爆)
八百杉の全景を見ると、上部がカットされて納得の佇まいです。
検査を拒否している人達がいる模様?集中的に強制検査が必要ですね!?(=^・ェ・^=)
by Boss365 (2020-07-10 12:53)
こんにちは!
あのブットイしめ縄の作るところをみたいです!
by Take-Zee (2020-07-10 16:36)
立派な屋根ですね。
時代を感じます。
by 夏炉冬扇 (2020-07-10 17:18)
水木しげるのルーツの像、とても漫画とは思えませんが面白いですね~
後醍醐天皇といえば児島高徳が連想されますが、ひょっとしたら出雲大社の流れは天皇家より長いのではないかと夢想します。
by OJJ (2020-07-10 17:46)
Boss365さん
ここのしめ縄、太いです。
太いと立派に見えますね。
Take-Zeeさん
太いしめ縄を作るところ、ニュースか何かで、見たことがあります。youtube か何かで探すと出てきそうです。
夏炉冬扇さん
はい、時代を感じさせる屋根ですね。
OJJさん
水木しげるさんが生後まもなくから2歳くらいまで住んでいた鳥取県境港には、水木しげるロードというのがあり、彼が漫画で描いた妖怪だけでなく、色々な妖怪像が作られています。
前に、ここを見に行き、ブログ記事にしています。(https://terry658-2.blog.ss-blog.jp/2019-07-17)
隠岐の島は、境港からもフェリーが出ていて、水木しげるが、隠岐の島を旅行したときに、その雰囲気を、水木しげるが、気に入り、水木しげるのルーツと言うことで、妖怪の彫像を建てるのを認めたようです。
>ひょっとしたら出雲大社の流れは天皇家より長いのではないかと夢想します。
その可能性は、ありますね。
by テリー (2020-07-10 22:07)