スペイン旅行 No10トレド観光後編その2 [スペイン旅行]
スペイン旅行 No9 トレド観光 その1 [スペイン旅行]
やっと、トレド観光の写真、動画の整理ができましたので、アップします。
トレドは、この旅行で、1番か、2番の見どころで、写真が多いので、数回に分けて、紹介します。
スペイン旅行4日目、マドリードから、トレドに向かいます。トレッドは、マドリードから、南へ、約75Kmのところにあり、バスで、約1時間です。
トレドは、先史時代から、人が住み、BC200年頃、ローマ人がやって来て、BC192年にローマ軍が来て、この地を攻略し、ここをローマ帝国辺境地の拠点としました。
AD 3世紀に、異民族が移動してきました。ゲルマン民族の大移動です。アラン族に続いて、AD418年に西ゴート族が侵入し、300年間、支配する。AD579年にトレドが西ゴート王国の首都とされました。
AD589年に第3回キリスト教公会議がトレドで開かれ、西ゴート王のキリスト教への改宗が承認されて、以後、スペインの本格的なキリスト教化が図られました。この時代に、トレドは、スペインの中心的な街の一つになり、スペインでカトリックの大司教区が最初におかれました。
AD711年にアラブのウマイア朝に、負け、政治的な支配を受けるが、町自体は、順調に発展しました。
1085年に、アルフォンソ6世が、トレドを奪還すると、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が盛んになり、キリスト教徒とイスラム教徒が争いが激化しますが。2年後、アルフォンソ8世は。トレドを王国の首都としました。
フェルディナンド3世神聖王(1217-1252) は、トレドを芸術・文化の一大中心地とし、トレドのカテドラルの建設に着手しました。この時代は、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒が、平和裏に共存していました。
1335年―1391年、裕福なヘブライ人に反感が高まり、ユダヤ教徒が、キリスト教徒によって虐殺される事件が発生しました。虐殺や異端裁判・火刑などを経て、1492年までに、スペインからユダヤ教徒が、駆逐されました。
その後、トレドは、絶対王政に対しる反乱行動の中心となります。反乱は、抑えられますが、1560年にフェリッペ2世により、首都をトレドから、マドリードに移されました。
その後、トレドの街は、発展せずに、16世紀の姿のまま、現代に残ることになりました。1986年に、ユネスコの世界遺産に登録されました。
という具合に、トレドは、すごい歴史のある街です。
トレドの旧市街です。
道は、結構広い。ただ、車も多い。
カテドラルが見えてきます。
カテドラルです。
はっきりした資料は残っていないそうですが、伝説上では、この場所に、キリスト教の教会があり、それは、町の守護聖人イルデフォンソを奉るものであったとそうです。イスラム教徒によって、トレドが、征服されたときに、モスクに建て替えさせられたが、1085年にアルフォンソ6世によって、奪回され、再び、キリスト教会になりました。その後、戦災を受け、1227年に、再建されました。13世紀のゴシック建築の代表例となっています。
市庁舎広場に面する正面(ファザード)の建設が始められたのは、1418年です。完成は、1493年です。
トレドは、この旅行で、1番か、2番の見どころで、写真が多いので、数回に分けて、紹介します。
スペイン旅行4日目、マドリードから、トレドに向かいます。トレッドは、マドリードから、南へ、約75Kmのところにあり、バスで、約1時間です。
トレドは、先史時代から、人が住み、BC200年頃、ローマ人がやって来て、BC192年にローマ軍が来て、この地を攻略し、ここをローマ帝国辺境地の拠点としました。
AD 3世紀に、異民族が移動してきました。ゲルマン民族の大移動です。アラン族に続いて、AD418年に西ゴート族が侵入し、300年間、支配する。AD579年にトレドが西ゴート王国の首都とされました。
AD589年に第3回キリスト教公会議がトレドで開かれ、西ゴート王のキリスト教への改宗が承認されて、以後、スペインの本格的なキリスト教化が図られました。この時代に、トレドは、スペインの中心的な街の一つになり、スペインでカトリックの大司教区が最初におかれました。
AD711年にアラブのウマイア朝に、負け、政治的な支配を受けるが、町自体は、順調に発展しました。
1085年に、アルフォンソ6世が、トレドを奪還すると、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が盛んになり、キリスト教徒とイスラム教徒が争いが激化しますが。2年後、アルフォンソ8世は。トレドを王国の首都としました。
フェルディナンド3世神聖王(1217-1252) は、トレドを芸術・文化の一大中心地とし、トレドのカテドラルの建設に着手しました。この時代は、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒が、平和裏に共存していました。
1335年―1391年、裕福なヘブライ人に反感が高まり、ユダヤ教徒が、キリスト教徒によって虐殺される事件が発生しました。虐殺や異端裁判・火刑などを経て、1492年までに、スペインからユダヤ教徒が、駆逐されました。
その後、トレドは、絶対王政に対しる反乱行動の中心となります。反乱は、抑えられますが、1560年にフェリッペ2世により、首都をトレドから、マドリードに移されました。
その後、トレドの街は、発展せずに、16世紀の姿のまま、現代に残ることになりました。1986年に、ユネスコの世界遺産に登録されました。
という具合に、トレドは、すごい歴史のある街です。
トレドの旧市街です。
道は、結構広い。ただ、車も多い。
カテドラルが見えてきます。
カテドラルです。
はっきりした資料は残っていないそうですが、伝説上では、この場所に、キリスト教の教会があり、それは、町の守護聖人イルデフォンソを奉るものであったとそうです。イスラム教徒によって、トレドが、征服されたときに、モスクに建て替えさせられたが、1085年にアルフォンソ6世によって、奪回され、再び、キリスト教会になりました。その後、戦災を受け、1227年に、再建されました。13世紀のゴシック建築の代表例となっています。
市庁舎広場に面する正面(ファザード)の建設が始められたのは、1418年です。完成は、1493年です。
スペイン旅行No8 セゴビア観光 白雪姫のモデルのお城 [スペイン旅行]
スペイン旅行 No7 セゴビア観光:水道橋、昼食 [スペイン旅行]
スペイン旅行 No6 アビラ観光 [スペイン旅行]
スペイン旅行 その5 国立ソフィア王妃芸術センター、夕食 [スペイン旅行]
一旦ホテルに、戻り、その後は、夕食も含めて、自由時間です。
マドリードは、地下鉄もありますが、タクシー料金が安いので、時間のない見物では、タクシーを使った方が効率的です。
王宮、国立ソフィア王妃芸術センターその他、色々、行きたいところがありましたが、まずは、国立王妃芸術センターに行き、その後、王宮に回るつもりでした。ただ、王宮は、午後5時までです。
国立ソフィア王妃芸術センターには、ピカソのゲルニカがあります。
まずは、タクシーで、近くまで行きます。
この前に。モニュメントがあります。これは、パリ博に出展されたオブジェです。
雨は止んでいますが、空は、暗いですね。
芸術センター内は、撮影禁止です。
この日は、入場料が無料でした。しかし、案内の地図が、在庫がなくなっていました。やむなく、一人4ユーロだったと思いますが、有料の音声のガイドを借りました。日本語版はなく、英語版です。
ただ、説明する番号があまりありませんでした。
3階と5階が見所と言っていましたが、3階以外は、あまり、面白くありませんでした。
ゲルニカは、何回か書き直されて、現在のものになっています。
バルセロナで、ピカソ美術館に行きましたが、こちらの方が、見甲斐がありました。
とは、言え、一度は、ゲルニカを見ましたので、まあ、いい経験でした。
ネットからの借用のゲルニカです。
なかなか難しい絵でした。
戦争の悲惨さを描いているのでしょうが、もう一つ、衝撃・感激がありませんでした。
まあ、早い話、本物を見ても、抽象画は、よく理解できなかったということでしょう。
写真では、わかりにくいですが、本物の絵は、書き直しの跡がはっきりわかりましたが、それ以上は、よくわかりません。
マドリードは、地下鉄もありますが、タクシー料金が安いので、時間のない見物では、タクシーを使った方が効率的です。
王宮、国立ソフィア王妃芸術センターその他、色々、行きたいところがありましたが、まずは、国立王妃芸術センターに行き、その後、王宮に回るつもりでした。ただ、王宮は、午後5時までです。
国立ソフィア王妃芸術センターには、ピカソのゲルニカがあります。
まずは、タクシーで、近くまで行きます。
この前に。モニュメントがあります。これは、パリ博に出展されたオブジェです。
雨は止んでいますが、空は、暗いですね。
芸術センター内は、撮影禁止です。
この日は、入場料が無料でした。しかし、案内の地図が、在庫がなくなっていました。やむなく、一人4ユーロだったと思いますが、有料の音声のガイドを借りました。日本語版はなく、英語版です。
ただ、説明する番号があまりありませんでした。
3階と5階が見所と言っていましたが、3階以外は、あまり、面白くありませんでした。
ゲルニカは、何回か書き直されて、現在のものになっています。
バルセロナで、ピカソ美術館に行きましたが、こちらの方が、見甲斐がありました。
とは、言え、一度は、ゲルニカを見ましたので、まあ、いい経験でした。
ネットからの借用のゲルニカです。
なかなか難しい絵でした。
戦争の悲惨さを描いているのでしょうが、もう一つ、衝撃・感激がありませんでした。
まあ、早い話、本物を見ても、抽象画は、よく理解できなかったということでしょう。
写真では、わかりにくいですが、本物の絵は、書き直しの跡がはっきりわかりましたが、それ以上は、よくわかりません。
スペイン旅行その4 マドリード市内観光 昼食、その他 [スペイン旅行]
スペイン旅行 その3 プラド美術館、市内観光 [スペイン旅行]
スペイン旅行 その2 マドリード市内観光その1 [スペイン旅行]
ホテルは、ベラスケス通りにあるグラン・ホテル・ベラスケスです。
市内の便利な場所にあることもあって、部屋は、あまり、広くありません。
前夜は、深夜着でしたので、この日は、7時半ごろから、食事をして、9時に、バスによるマドリード市内観光に出発です。
天気は、曇りから、少し、小雨がぱらついていました。
バスは、ベラスケス通りを北上し、ホセ・オルテガ・イ・ガセット通りを左折し、更に、セラーノ通りで、左折し、セラーノ通りを南下し、独立広場で、右折し、アルカラ通りに入ります。
独立広場は、1808-~1813年のフランス・ナポレオンの支配に対する独立戦争の勝利を記念して、名づけられました。
独立広場には、アルカラ門があります。
このアルカラ門は、マドリードの街を象徴するモニュメントになっていますが、1778年に国王カルロス3世の命で、作られました。この場所には、それ以前にも、古いアルカラ門がありましたが、これは、1599年に国王フェリッペ3世が、オーストリアのマルガリータ王女を妃として迎えるために、建設したものでした。この門を通って、アルカラ・デ・エナーレの街に行ったので、アルカラ門と呼ばれるようになったそうです。
1759年12月9日にこの門を通ったカルロス3世は、この門が気に入らず、もっと豪壮で、華やかな門に作り替えるように命じました。サバティーニが新しい門の製作プロジェクトの責任者に任ぜられ、1774年に建設が開始し、1778年に完成しました。
アルカラ通りを西に少し行くと、シベーレス広場に着きます。
シベーレス広場の北西には、1777年に建設されたブエナビスタ宮殿(現在、スペイン陸軍司令部がある。)、北東には、リナーレス宮殿、南東には、コムニカシオネス宮殿、南西には、スペイン銀行本店があります。
コムニカシオネス宮殿は、郵便局となり、2007年から、マドリード市庁舎となっています。
マドリード市庁舎です。いかにも、宮殿という感じですね。
広場には、シベーレスの噴水があります。
1777年から1782年にかけて、建築家ベントゥーラ・ロドリゲスによって設計されたものです。
彫刻は、フランシスコ・グティエレスによって、製作されたもの。
青大理石を材料に、農業と豊作をつかさどるギリシア神話の大地母神,キュベレがライオンのひく二頭立て馬車に乗る姿を描いています。
市内の便利な場所にあることもあって、部屋は、あまり、広くありません。
前夜は、深夜着でしたので、この日は、7時半ごろから、食事をして、9時に、バスによるマドリード市内観光に出発です。
天気は、曇りから、少し、小雨がぱらついていました。
バスは、ベラスケス通りを北上し、ホセ・オルテガ・イ・ガセット通りを左折し、更に、セラーノ通りで、左折し、セラーノ通りを南下し、独立広場で、右折し、アルカラ通りに入ります。
独立広場は、1808-~1813年のフランス・ナポレオンの支配に対する独立戦争の勝利を記念して、名づけられました。
独立広場には、アルカラ門があります。
このアルカラ門は、マドリードの街を象徴するモニュメントになっていますが、1778年に国王カルロス3世の命で、作られました。この場所には、それ以前にも、古いアルカラ門がありましたが、これは、1599年に国王フェリッペ3世が、オーストリアのマルガリータ王女を妃として迎えるために、建設したものでした。この門を通って、アルカラ・デ・エナーレの街に行ったので、アルカラ門と呼ばれるようになったそうです。
1759年12月9日にこの門を通ったカルロス3世は、この門が気に入らず、もっと豪壮で、華やかな門に作り替えるように命じました。サバティーニが新しい門の製作プロジェクトの責任者に任ぜられ、1774年に建設が開始し、1778年に完成しました。
アルカラ通りを西に少し行くと、シベーレス広場に着きます。
シベーレス広場の北西には、1777年に建設されたブエナビスタ宮殿(現在、スペイン陸軍司令部がある。)、北東には、リナーレス宮殿、南東には、コムニカシオネス宮殿、南西には、スペイン銀行本店があります。
コムニカシオネス宮殿は、郵便局となり、2007年から、マドリード市庁舎となっています。
マドリード市庁舎です。いかにも、宮殿という感じですね。
広場には、シベーレスの噴水があります。
1777年から1782年にかけて、建築家ベントゥーラ・ロドリゲスによって設計されたものです。
彫刻は、フランシスコ・グティエレスによって、製作されたもの。
青大理石を材料に、農業と豊作をつかさどるギリシア神話の大地母神,キュベレがライオンのひく二頭立て馬車に乗る姿を描いています。
スペイン旅行 その1 マドリードへ [スペイン旅行]
スペインへは、長い間行きたいと思っていましたが、なかなか機会がなく、やっと旅行が実現しました。
とりあえず、スペインは、初めてですので、なるべく、広範囲に回れる方がいいということで、H 社の11日間のツアーにしました。
一回ツアー旅行で、大きな手荷物を運んでくれ、旅行先で、見所を案内して、説明までしてくれ、しかも、料金も安いとくれば、ある年代から、ツアー旅行が多くなりました。
もちろん、ツアー旅行は、見たいところを、じっくり見ることができませんがーー。
2010年3月のトルコ旅行以来の海外旅行ですが、手荷物の重量が23Kg以下のスーツケース 2個以下と増えていました。今回利用するルフトハンザだけでなく、JAL, ANA すべて、変わっていました。
ありがたい変更です。一方機内持ち込み荷物の大きさ、重量もしっかり、旅行の注意事項に記載されています。機内持ち込み荷物は、8Kg 以内のもの1個(エコノミー)となっており、デジイチ2台 (EOS 5D MK3, EOS Kiss X4)、交換レンズ(EF 17-40F4L USM, EF24-105 F4L IS USM EF-S18-135 F3.5-5.6 IS, EF-S55-250 F4-5.6 IS)、コンデジ3台(DSC-HX30V, DSC TX20, DSC-HX9V, SX50HS)、ビデオカメラHDR-CX390、携帯型パソコン、携帯HDD2台,カメラ予備電池などをすべて、機内持ち込み荷物にすると簡単に10Kg を越えています。この重量8kg という重量制限がどこまで、チェックされるか、わかりません。いまだかつて、機内持ち込み荷物の重量を節句されたことはありませんが、1回か2回しか乗ったことのないルフトハンザの飛行機ですので、どこまで、厳しくいわれるか、不明です。
やむなく、チェックインバゲッジ(手荷物)の方に、いれてもこわれないだろうと思われるコンデジSX50HS、携帯HDD、交換レンズ2個を手荷物の方に、入れました。
手荷物の方は、家で測定したら、22.5Kg, 成田空港でのチェックイン時は、22.9Kg とぎりぎりでした。
なお、蛇足ですが、23Kg 2個で、夫婦の場合、23Kgの手荷物が が4個OK ですが、1個でも、23 Kg を超えると、うるさく言われる可能性があります。(決して、合計が重量内であればOKというものではありません。)
実際、スペイン旅行の国内線で、マラガからバルセロナに移動するとき、14名中2名が一つの手荷物が25Kg で、一人が、うるさく言われて、荷物を減らされました。
一人は、OKでしたがーー。係官にもよるようですが、基本的には、一つ一つの荷物が、23Kg 以内でないと、文句を言われる可能性がありますので、皆さんが旅行されるときは、気を付けてください。
成田発13:00 のミュンヘン行です。
食事は、14:00 以降となるとのことでしたので、レストランで、軽く食事をとって出発です。
飛行機は、ルフトハンザのA340-600 です。日本の航空会社は、B747-400 などの4発の航空機は、燃費が悪いために極力減らしていますが、これは、4発(エンジンが4つついています。)の珍しい航空機です。
座席は、2-4-2 で、窓側の2席、パートナーと並んで、座っていましたが、私の前のエンターテインメントシステムがおかしく、液晶モニターが、映りません。CAさんにチェックしていただきましたが、治らず、1時間半以上たってから、座席を変えていただきました。
満席に近い状態でしたので、わずか、1席のみ残った席に、私だけが、後方部コンパートメントの一番前の席に移動しました。前が、壁ですが、少し、広いです。
この前が、ギャレーのようですが、トイレもあるようです。行ってみたら、トイレは、階段で下りて、通常は、貨
物室となっている場所に、6つ、設置されていました。さらに、長距離線ですので、客室乗務員が、休養する部屋も、設置されていました。(もちろん、立ち入り禁止で、中も見えませんが、客室乗務員が、そこから出てきましたので、間違いないと思います。)
昼食のメニューです。
鳥肉は、食べないわけではないのですが、牛の方が好きですので、こちらを選択しました。(これは、和食ということになっていました。)
この和食を選択する人が多く、パートナーのいる席では、品切れになっていたそうです。
飲み物は、ワイン、ビール、ソフトドリンクで、日本酒はありません。
とりあえず、スペインは、初めてですので、なるべく、広範囲に回れる方がいいということで、H 社の11日間のツアーにしました。
一回ツアー旅行で、大きな手荷物を運んでくれ、旅行先で、見所を案内して、説明までしてくれ、しかも、料金も安いとくれば、ある年代から、ツアー旅行が多くなりました。
もちろん、ツアー旅行は、見たいところを、じっくり見ることができませんがーー。
2010年3月のトルコ旅行以来の海外旅行ですが、手荷物の重量が23Kg以下のスーツケース 2個以下と増えていました。今回利用するルフトハンザだけでなく、JAL, ANA すべて、変わっていました。
ありがたい変更です。一方機内持ち込み荷物の大きさ、重量もしっかり、旅行の注意事項に記載されています。機内持ち込み荷物は、8Kg 以内のもの1個(エコノミー)となっており、デジイチ2台 (EOS 5D MK3, EOS Kiss X4)、交換レンズ(EF 17-40F4L USM, EF24-105 F4L IS USM EF-S18-135 F3.5-5.6 IS, EF-S55-250 F4-5.6 IS)、コンデジ3台(DSC-HX30V, DSC TX20, DSC-HX9V, SX50HS)、ビデオカメラHDR-CX390、携帯型パソコン、携帯HDD2台,カメラ予備電池などをすべて、機内持ち込み荷物にすると簡単に10Kg を越えています。この重量8kg という重量制限がどこまで、チェックされるか、わかりません。いまだかつて、機内持ち込み荷物の重量を節句されたことはありませんが、1回か2回しか乗ったことのないルフトハンザの飛行機ですので、どこまで、厳しくいわれるか、不明です。
やむなく、チェックインバゲッジ(手荷物)の方に、いれてもこわれないだろうと思われるコンデジSX50HS、携帯HDD、交換レンズ2個を手荷物の方に、入れました。
手荷物の方は、家で測定したら、22.5Kg, 成田空港でのチェックイン時は、22.9Kg とぎりぎりでした。
なお、蛇足ですが、23Kg 2個で、夫婦の場合、23Kgの手荷物が が4個OK ですが、1個でも、23 Kg を超えると、うるさく言われる可能性があります。(決して、合計が重量内であればOKというものではありません。)
実際、スペイン旅行の国内線で、マラガからバルセロナに移動するとき、14名中2名が一つの手荷物が25Kg で、一人が、うるさく言われて、荷物を減らされました。
一人は、OKでしたがーー。係官にもよるようですが、基本的には、一つ一つの荷物が、23Kg 以内でないと、文句を言われる可能性がありますので、皆さんが旅行されるときは、気を付けてください。
成田発13:00 のミュンヘン行です。
食事は、14:00 以降となるとのことでしたので、レストランで、軽く食事をとって出発です。
飛行機は、ルフトハンザのA340-600 です。日本の航空会社は、B747-400 などの4発の航空機は、燃費が悪いために極力減らしていますが、これは、4発(エンジンが4つついています。)の珍しい航空機です。
座席は、2-4-2 で、窓側の2席、パートナーと並んで、座っていましたが、私の前のエンターテインメントシステムがおかしく、液晶モニターが、映りません。CAさんにチェックしていただきましたが、治らず、1時間半以上たってから、座席を変えていただきました。
満席に近い状態でしたので、わずか、1席のみ残った席に、私だけが、後方部コンパートメントの一番前の席に移動しました。前が、壁ですが、少し、広いです。
この前が、ギャレーのようですが、トイレもあるようです。行ってみたら、トイレは、階段で下りて、通常は、貨
物室となっている場所に、6つ、設置されていました。さらに、長距離線ですので、客室乗務員が、休養する部屋も、設置されていました。(もちろん、立ち入り禁止で、中も見えませんが、客室乗務員が、そこから出てきましたので、間違いないと思います。)
昼食のメニューです。
鳥肉は、食べないわけではないのですが、牛の方が好きですので、こちらを選択しました。(これは、和食ということになっていました。)
この和食を選択する人が多く、パートナーのいる席では、品切れになっていたそうです。
飲み物は、ワイン、ビール、ソフトドリンクで、日本酒はありません。