スペイン旅行No21 セビージャのカテドラル その1 [スペイン旅行]
セビージャのカテドラルは、スペインで最大、世界で、3番目の大きさの大聖堂です。
ちなみに、1位は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂、2位は、ロンドンのセント・ポール大聖堂です。
レコンキスタ以前は、モスクが建っていたそうです。モスクを破壊して、モスクの建っていたところに、教会を建てたものです。1401年に建設を開始し、1519年に完成しました。
奥行116m, 幅76mあり、その幅広い得意な形は、モスクの名残だそうです。
この大聖堂も、1987年にユネスコの世界遺産に登録されています。
隣接する高さ97mのヒラルダの塔は、12世紀末にモスクのミナレットとして、建設されました。16世紀に、プラテレスコ様式の鐘楼がつけられました。
鷹さ70mのところに、展望台があり、ここまで、登っていけます。
中央がヒラルダの塔です。
鐘楼をアップします。
鐘の下に人が見えます。
ちなみに、1位は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂、2位は、ロンドンのセント・ポール大聖堂です。
レコンキスタ以前は、モスクが建っていたそうです。モスクを破壊して、モスクの建っていたところに、教会を建てたものです。1401年に建設を開始し、1519年に完成しました。
奥行116m, 幅76mあり、その幅広い得意な形は、モスクの名残だそうです。
この大聖堂も、1987年にユネスコの世界遺産に登録されています。
隣接する高さ97mのヒラルダの塔は、12世紀末にモスクのミナレットとして、建設されました。16世紀に、プラテレスコ様式の鐘楼がつけられました。
鷹さ70mのところに、展望台があり、ここまで、登っていけます。
中央がヒラルダの塔です。
鐘楼をアップします。
鐘の下に人が見えます。
スペイン旅行No20 セビージャ 旧市街散策 [スペイン旅行]
スペイン旅行No19 セビージャ スペイン広場観光 [スペイン旅行]
セビージャは、セビリア、セビリヤ、セビーヤ、セビリャ、セビーリャと色々表記されています。古代ローマ時代から、フェニキア、カルタゴなどの植民都市であったが、8世紀に、イスラム勢力の支配下にはいり、500年以上、イスラム文化の繁栄の舞台になりました。
グアダルキビール川に面した良港として、経済的に発展しました。
15世紀後半、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併で、生まれたスペイン王国は、同世紀末に、レコンキスタを完成させ、新大陸に船を進め、セビージャは、アメリカとの貿易の独占港として、繁栄しました。
アンダルシア州の州都、セビージャ県の県都で、スペイン第4位の人口をもつ都市です。
1992年には、セビージャ万博が開かれています。
セビージャのスペイン広場は、1929年にイベロ・アメリカ博覧会の会場施設として作られたものです。イベロ・アメリカとは、かつて、スペイン・ポルトガルの植民地だった国々全体を示します。
広場内の建物は、セビージャやアンダルシアの典型的な建築様式、ムデハル様式を取り入れたもので、両翼に、半円形に延びる回廊とスペイン各県の歴史的出来事を描写した壁面タイルが特徴的です。
ここは、映画のロケ地にもなっています。
一つは、アラビアのロレンスでは、英軍が逗留するホテルとして、もう一つは、スター・ウォーズ エピソード2で、アナキン達が惑星ナプーに着いた直後のシーンで、ここが、使われています。
グアダルキビール川に面した良港として、経済的に発展しました。
15世紀後半、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併で、生まれたスペイン王国は、同世紀末に、レコンキスタを完成させ、新大陸に船を進め、セビージャは、アメリカとの貿易の独占港として、繁栄しました。
アンダルシア州の州都、セビージャ県の県都で、スペイン第4位の人口をもつ都市です。
1992年には、セビージャ万博が開かれています。
セビージャのスペイン広場は、1929年にイベロ・アメリカ博覧会の会場施設として作られたものです。イベロ・アメリカとは、かつて、スペイン・ポルトガルの植民地だった国々全体を示します。
広場内の建物は、セビージャやアンダルシアの典型的な建築様式、ムデハル様式を取り入れたもので、両翼に、半円形に延びる回廊とスペイン各県の歴史的出来事を描写した壁面タイルが特徴的です。
ここは、映画のロケ地にもなっています。
一つは、アラビアのロレンスでは、英軍が逗留するホテルとして、もう一つは、スター・ウォーズ エピソード2で、アナキン達が惑星ナプーに着いた直後のシーンで、ここが、使われています。
スペイン旅行No18 コルドバからセビージャへ [スペイン旅行]
久しぶりに、スペイン旅行記に戻ります。
3月20日、コルドバから、セビージャへ、そこで、観光し、更にロンダへ移動しますが、
今回は、コルドバからセビージャまでの紹介です。
朝食です。
旅行も6日目になると、バイキングの朝食でも、あまり、食べなくなります。
ホテルのコルドバセンターです。
このホテルも、無線LAN は、無料でした。ヨーロッパも、ネット環境が、だいぶ変わってきた感じです。数年前までは、1日25ユーロなんて言うホテルが多かったですがーー。
この日は、前日とは打って変わって、上天気でした。
コルドバ、グアダルキビール川を渡っているところです。
遠くに、モスク、ミナレット、ローマ橋が見えます。
3月20日、コルドバから、セビージャへ、そこで、観光し、更にロンダへ移動しますが、
今回は、コルドバからセビージャまでの紹介です。
朝食です。
旅行も6日目になると、バイキングの朝食でも、あまり、食べなくなります。
ホテルのコルドバセンターです。
このホテルも、無線LAN は、無料でした。ヨーロッパも、ネット環境が、だいぶ変わってきた感じです。数年前までは、1日25ユーロなんて言うホテルが多かったですがーー。
この日は、前日とは打って変わって、上天気でした。
コルドバ、グアダルキビール川を渡っているところです。
遠くに、モスク、ミナレット、ローマ橋が見えます。
スペイン旅行No17 コルドバ花の小路の散策 [スペイン旅行]
メスキータをミナレット近くの出口から出ました。
花の小路の散策です。
この辺りは、昔、ユダヤ人が住んでいた区域ですが、1492年に、イスラム勢力を一掃するとともに、ユダヤ人(約15万人)の追放を決めました。
ユダヤ人に対する迫害は、それ以前にも、ありました。イスラム時代は、比較的寛容でしたが、キリスト教徒が、勢力を増してくると、厳しくなり、1413年に約20万人のユダヤ人がキリスト教への改宗を強いられたそうです。改宗して、スペインに残った人も、隠れユダヤ教徒として、異端審査にかけられて、多数の人が、火刑に処せられたそうです。
1492年は、丁度コロンブスが、新大陸を発見した年ですが、スペインの国旗を掲げていても、ユダヤの資本で、コロンブス艦隊が編成され、コロンブス自身、ユダヤの血が入っていたそうで、乗組員には、ユダヤ人が加わっていたそうです。調べてゆくと、宗教、差別、差別が新たな虐殺を生み出してゆくという色々、興味深いものがわかりますが、ここでは、これ以上、書くと、旅行記のブログでなくなりそうなので、やめにします。
狭い小路を通って、振り返ると、ミナレットが見えます。
花の小路の散策です。
この辺りは、昔、ユダヤ人が住んでいた区域ですが、1492年に、イスラム勢力を一掃するとともに、ユダヤ人(約15万人)の追放を決めました。
ユダヤ人に対する迫害は、それ以前にも、ありました。イスラム時代は、比較的寛容でしたが、キリスト教徒が、勢力を増してくると、厳しくなり、1413年に約20万人のユダヤ人がキリスト教への改宗を強いられたそうです。改宗して、スペインに残った人も、隠れユダヤ教徒として、異端審査にかけられて、多数の人が、火刑に処せられたそうです。
1492年は、丁度コロンブスが、新大陸を発見した年ですが、スペインの国旗を掲げていても、ユダヤの資本で、コロンブス艦隊が編成され、コロンブス自身、ユダヤの血が入っていたそうで、乗組員には、ユダヤ人が加わっていたそうです。調べてゆくと、宗教、差別、差別が新たな虐殺を生み出してゆくという色々、興味深いものがわかりますが、ここでは、これ以上、書くと、旅行記のブログでなくなりそうなので、やめにします。
狭い小路を通って、振り返ると、ミナレットが見えます。
スペイン旅行No16 コルドバ メスキータ [スペイン旅行]
メスキータは、大モスクで、後ウマイヤ朝を開いたアブド・アッラフマーン1世によって785年に建設がはじめられた。3回にわたって、拡張が行われ、2万5千人を収容する大モスクが完成しました。
この大モスクが作られる前の6-7世紀には、西ゴート王国の聖ビセンテ教会がありました。
このビセンテ教会を取り壊し、その材料も使って、大モスクが作られたわけです。
1236年にカスティーリャ王フェルナンド3世により、コルドバが征服され、大モスクは、カトリックの教会に転用されました。
16世紀、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世、スペイン名、カルロス5世)の治世に、モスク中央部に、ゴシック様式とルネサンス様式の折衷の教会堂(聖マリア大聖堂)が建設されました。
イスラム教とキリスト教が併存する感じで、非常に、ユニークです。
メスキータ(大モスク)内部です。
かつては1000本以上の円柱があったそうで、854本現存しているそうです。
(数えていませんがーー)
円柱の上部に、10m 位の天井を支えるために、二重アーチが使われている。
これは、メリダにあるローマ橋を参考にしたと言われ、無数の円柱を作るために、世界各地の時代、様式、場所の異なる建物から、材料を集められましたが、その転用の時に、サイズが小さくなった円柱の高さを調節するためだそうです。二重アーチは、赤いレンガと白い石灰岩で、作られています。
二重アーチと天井。
この天井は、イスラム支配時代のもののようです。
白い天井。
比較的最近のもの。
この大モスクが作られる前の6-7世紀には、西ゴート王国の聖ビセンテ教会がありました。
このビセンテ教会を取り壊し、その材料も使って、大モスクが作られたわけです。
1236年にカスティーリャ王フェルナンド3世により、コルドバが征服され、大モスクは、カトリックの教会に転用されました。
16世紀、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世、スペイン名、カルロス5世)の治世に、モスク中央部に、ゴシック様式とルネサンス様式の折衷の教会堂(聖マリア大聖堂)が建設されました。
イスラム教とキリスト教が併存する感じで、非常に、ユニークです。
メスキータ(大モスク)内部です。
かつては1000本以上の円柱があったそうで、854本現存しているそうです。
(数えていませんがーー)
円柱の上部に、10m 位の天井を支えるために、二重アーチが使われている。
これは、メリダにあるローマ橋を参考にしたと言われ、無数の円柱を作るために、世界各地の時代、様式、場所の異なる建物から、材料を集められましたが、その転用の時に、サイズが小さくなった円柱の高さを調節するためだそうです。二重アーチは、赤いレンガと白い石灰岩で、作られています。
二重アーチと天井。
この天井は、イスラム支配時代のもののようです。
白い天井。
比較的最近のもの。
スペイン旅行No14 アルハンブラ宮殿 後編 [スペイン旅行]
スペイン旅行No13 アルハンブラ宮殿 前編 [スペイン旅行]
今回は、あの有名なアルハンブラ宮殿です。
ここは、予約しておかないといけないようです。
9時半の予約でした。
年間200万人もの人が訪れるそうです。
スペインに来たら、ここは、見落とせない場所ですね。
アルハンブラ宮殿の歴史については、次のブログに、説明しました。
http://terry658-2.blog.so-net.ne.jp/2013-04-24-1
アルハンブラ宮殿近くの丘の上に、大砲が、残っていました。
最初に入ったのが、カルロス5世宮殿です。
グラナダを征服して、レコンキスタを完了させたイアサベル女王の死後、次女フアナ王女が跡をつぎますが、夫の死後、精神的におかしくなり、長男が、1516年に16歳でスペイン王に即位し、翌年、カール5世として、神聖ローマ帝国の皇帝に即位します。1526年にカルロス1世が、ポルトガルのイサベル王女と結婚し、新婚旅行でアルハンブラ宮殿に泊まったそうです。その後、カルロス1世の命令によって、この宮殿の建設がはじめられましたが、資金不足で、完成せず、1960年に、現在の形になったそうです。イスラム文化の建物ではありません。
面白いのは、外は、四角ですが、中は、円形パティオです。
ここは、予約しておかないといけないようです。
9時半の予約でした。
年間200万人もの人が訪れるそうです。
スペインに来たら、ここは、見落とせない場所ですね。
アルハンブラ宮殿の歴史については、次のブログに、説明しました。
http://terry658-2.blog.so-net.ne.jp/2013-04-24-1
アルハンブラ宮殿近くの丘の上に、大砲が、残っていました。
最初に入ったのが、カルロス5世宮殿です。
グラナダを征服して、レコンキスタを完了させたイアサベル女王の死後、次女フアナ王女が跡をつぎますが、夫の死後、精神的におかしくなり、長男が、1516年に16歳でスペイン王に即位し、翌年、カール5世として、神聖ローマ帝国の皇帝に即位します。1526年にカルロス1世が、ポルトガルのイサベル王女と結婚し、新婚旅行でアルハンブラ宮殿に泊まったそうです。その後、カルロス1世の命令によって、この宮殿の建設がはじめられましたが、資金不足で、完成せず、1960年に、現在の形になったそうです。イスラム文化の建物ではありません。
面白いのは、外は、四角ですが、中は、円形パティオです。
スペイン旅行 No12 夜のアルハンブラ宮殿 [スペイン旅行]
アルハンブラ宮殿は、私もぜひ見に行きたいと思っていた場所です。
グラナダ王国が、1238年に建国されましたが、その頃、イスラム教徒の本拠地のグラナダとセビーリャが陥落し、レコンキスタが完了しつつある時代でした。ナスル王朝初代王アル・アフマール(在位1232-73年)は、仇敵のカスティーリャ王国に服属して、外交を安定させて、商工業の発展に力を注ぎました。こうして、経済的に豊かになって、王は、アルハンブラに宮殿を築城しました。
宮殿は、7代目の王になって、ようやく、完成しました。
1492年に最後の王ボアブディルは、レコンキスタの流れに、抗しきれないと判断し、宮殿を、カトリック女王イサベラに明け渡して、臣下と共に、北アフリカに逃れました。
アルハンブラ宮殿は、18世紀の王言う継承戦争やナポレオン戦争を経て、荒れ果てていたのを、19世紀、米国人作家のワシントン・アービングの『アルハンブラ物語』で、世界の注目を集め、スペイン有数の観光地となったものです。
ライトアップされたアルハンブラ宮殿を撮影するには、宮殿とは、向かいの小高い丘に行かないといけません。そこへ行くには、少し、治安が悪いところを通らないといけませんので、ガイドブックでは、タクシーで行くことを勧めています。
ホテルから、30ユーロ位で行けます。
グラナダは、意外と大きな町でした。
1枚だけ、タクシーから撮影しました。
向かいの丘からのアルハンブラ宮殿です。
グラナダ王国が、1238年に建国されましたが、その頃、イスラム教徒の本拠地のグラナダとセビーリャが陥落し、レコンキスタが完了しつつある時代でした。ナスル王朝初代王アル・アフマール(在位1232-73年)は、仇敵のカスティーリャ王国に服属して、外交を安定させて、商工業の発展に力を注ぎました。こうして、経済的に豊かになって、王は、アルハンブラに宮殿を築城しました。
宮殿は、7代目の王になって、ようやく、完成しました。
1492年に最後の王ボアブディルは、レコンキスタの流れに、抗しきれないと判断し、宮殿を、カトリック女王イサベラに明け渡して、臣下と共に、北アフリカに逃れました。
アルハンブラ宮殿は、18世紀の王言う継承戦争やナポレオン戦争を経て、荒れ果てていたのを、19世紀、米国人作家のワシントン・アービングの『アルハンブラ物語』で、世界の注目を集め、スペイン有数の観光地となったものです。
ライトアップされたアルハンブラ宮殿を撮影するには、宮殿とは、向かいの小高い丘に行かないといけません。そこへ行くには、少し、治安が悪いところを通らないといけませんので、ガイドブックでは、タクシーで行くことを勧めています。
ホテルから、30ユーロ位で行けます。
グラナダは、意外と大きな町でした。
1枚だけ、タクシーから撮影しました。
向かいの丘からのアルハンブラ宮殿です。
スペイン旅行 No11 トレドからグラナダへ [スペイン旅行]
昨日、無事手術が終わりました。
手術は、麻酔をかけられて、全く、覚えていません。
2時ごろに、手術室に運ばれて、気がついたら、自分の病室でした。
4時半ごろです。それから、3時間安静でした。
痛みは、まだあります。
みなさまのところには、ゆっくり、巡回したいですね。
さて、スペイン旅行の続きです。
トレドでの昼食の後、再び、バスに乗って、トレドの南の丘に行きます。ここからの見晴らしがすばらしい。
この場所から、動画も撮影しましたので、この動画の方が、わかりやすい。
http://youtu.be/0snOcNvR75U
再び、バスに乗って、トレドを東に向かって移動。
手前が新アルカンタラ橋、奥がアルカンタラ橋です。
アルカンタラ橋が、一番古く、ローマ時代からあったそうです。この時代は、この橋が唯一の橋だったそうです。
手術は、麻酔をかけられて、全く、覚えていません。
2時ごろに、手術室に運ばれて、気がついたら、自分の病室でした。
4時半ごろです。それから、3時間安静でした。
痛みは、まだあります。
みなさまのところには、ゆっくり、巡回したいですね。
さて、スペイン旅行の続きです。
トレドでの昼食の後、再び、バスに乗って、トレドの南の丘に行きます。ここからの見晴らしがすばらしい。
この場所から、動画も撮影しましたので、この動画の方が、わかりやすい。
http://youtu.be/0snOcNvR75U
再び、バスに乗って、トレドを東に向かって移動。
手前が新アルカンタラ橋、奥がアルカンタラ橋です。
アルカンタラ橋が、一番古く、ローマ時代からあったそうです。この時代は、この橋が唯一の橋だったそうです。